1950年新潟県安田町生まれ。
家業の大工を継ぎながら、新潟水俣病の未認定患者の運動に奔走する。
『阿賀に生きる』が作られたのも旗野さんの力によるところが大きい。監督の佐藤真が最初に新潟を訪れた時、阿賀野川を舞台とした記録映画を作ってほしいとたきつけ、その決心をさせたのも、他ならぬ旗野さんである。制作時には、住民とスタッフの橋渡し役を担った。完成後、「阿賀に生きる」をもって全国を飛び回る。水俣病は文化運動であるべきと、「冥途のみやげツアー」と題した上映会や講演会を開催。さらに患者の会のメンバーのCD製作、絵本作り、アメリカ人舟大工との阿賀の川舟復活計画など、阿賀に生きた人たちの生きざまと誇りを伝えるべく活動を続けている。

 1957年青森県弘前市に生まれる。東京大学文学部哲学科を卒業。1981年、『無辜(むこ)なる海―1982年・水俣―』(監督:香取直孝)に助監督として参加。1984年同作品の自主上映の旅で新潟県阿賀野川とそこに暮らす人々と出会い、映画作りを決意する。1989年からスタッフ7名で阿賀野川流域の民家で共同生活をしながら撮影し、1992 年『阿賀に生きる』を完成させる。長編映画初監督にして、ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭銀賞ほか4賞受賞、サンダンス・フィルム・フェスティバル IN TOKYOグランプリ受賞、文化庁優秀映画作品賞など国内外で高い評価を受ける。1996年(有)カサマフィルム設立。1999年よりNPO法人映画美学校ドキュメンタリー科専任講師となり、2001年には京都造形芸術大学の教授に就任。著作に「日常という名の鏡―ドキュメンタリー映画の界隈―」(1997)、「映画が始まるところ」(2002)など。2007年9月4日急逝。

『阿賀に生きる』(1992)/『水俣病ビデオQ&A』(1996) /『まひるのほし』(1999) /『SELF AND OTHERS』(2000) /『新潟県の歴史』(2000) /『花子』(2001)/『表現という快楽』(2001) /『中東レポート アラブの人々から見た自衛隊イラク派兵』(2004)/『阿賀の記憶』(2004) /『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(2005)

 

 1954年生まれ。1992年『阿賀に生きる』の撮影で日本映画撮影監督協会第1回JSC賞を受賞。1996年、長野県佐久総合病院の地域医療を描いた『地域をつむぐ』(時枝俊江監督)、2001年、北海道の炭鉱に生きた人々を描いた『闇を掘る』(藤本幸久監督)で撮影を務める。一方、自身での監督作品として、障害のある子どもを受け入れる学童保育所「つばさクラブ」を描いた三部作『こどものそら』(1997~2000)を発表。続く2001年には重度障害者の佐藤正尋さんと介助者たちの日常を描いた『ちょっと青空』を制作。2002年に脳梗塞で倒れるも復帰し、重症心身障害児(者)施設「第二びわこ学園」を描いた長編ドキュメンタリー映画『わたしの季節』(2004)により文化庁映画大賞、毎日映画コンクール記録文化映画賞など受賞。2006年、腎不全をおしてケニア取材を敢行し、ケニアのストリートチルドレンの生き様を描いた『チョコラ!』(2009)を東京・渋谷のユーロスペースで公開。著書に「ぼくたちは生きているのだ」(岩波ジュニア新書)、「チョコラ!アフリカの路上に生きる子どもたち」(岩波ブックレット)など多数。現在、人工透析をしながら新潟県の豪雪地帯を舞台に『風の波紋―雪国の村から』(仮題)を撮影中。

 1959年生まれ。『阿賀に生きる』に関わることになったきっかけは、撮影の10年ほど前、学生時代に熊本・水俣を訪れたおり、偶然新潟から来訪していた旗野秀人さんに出会ったことに、端を発している。その後郷里、新潟を流れる阿賀野川へと足を運ぶようになる。そして、東京で鍼灸師養成学校に通っていたころ、監督の佐藤と出会い、映画の録音もできる鍼灸師としてスタッフに参加した。現在は東京にて鍼灸院を開設。技、人格ともに信頼が厚い。

 1964年生まれ。水への関心が高く、大学時代は生活排水による汚染防止のために石鹸売りをしていた。就職先の煎餅会社を辞めた後、水に関わる縁で知らず知らずのうちに『阿賀に生きる』のスタッフに接近。酒の勢いと、周囲の策謀により、スタッフの一員となってしまった。その後、職業訓練校にて木工技術を習得。現在、阿賀町にて木工作品を制作。

 1962年生まれ。東京の証券会社を辞め、ひょんなことからスタッフとなる。料理の腕はプロ並みで、阿賀の家の料理番でもあった。編集作業中にスピード結婚し、新潟県の中央部に位置する三条市にある実家の鋸屋を継ぐ。

 1971年生まれ。阿賀野川が流れる五泉市に住む早熟な不良映画少年だった熊倉は、高校在学中から阿賀の家に通い始め、卒業と同時にスタッフ入り。10代最後の貴重な青春時代をオッサンどもに囲まれて過ごす。ゴダールをこよなく愛し、難解な映画論をぶっては、他のスタッフを煙に巻いていた。その後、上京。いろいろやっているようだが、まずは元気にしている。

 1961年生まれ。大学中退後、日本縦断徒歩旅行の途中で新潟に立ち寄り、そのまま新潟市民となる。本作には、まず製作委員として参加するが、その後スチール担当として現場スタッフに。『阿賀に生きる』撮影後も小林茂の助手としてドキュメンタリー映画の製作に携わる。現在は、新潟市にてフリーランスのカメラマンとして活動中。